白狸の考現家 +図書

40手前で「読書」に目覚めた遅口です。知が凝縮された「宝物」。気付くのが遅すぎました・・・

猿楽と面 大和・近江および白山の周辺から

 

猿楽と面-大和・近江および白山の周辺から-

猿楽と面-大和・近江および白山の周辺から-

 

MIHO MUSEUM2018年春季特別展「猿楽と面―大和・近江および白山周辺から―」の展覧会図録。

平安後期から鎌倉時代の古面に始まり、南北朝から室町、安土桃山時代の大成期にわたる350点(うち重要文化財80点)の「面(おもて)」をカラーで掲載、さらに約500点の面の表/裏を一堂に収録する。

興福寺春日大社などに猿楽を奉仕した大和四座の本拠地大和、世阿弥の『風姿花伝』や『申楽談義』に大和猿楽に並ぶ勢力として登場し、延暦寺日吉大社などに猿楽を奉仕した近江、そして霊峰白山の参拝口である加賀馬場、越前馬場、美濃馬場の祭礼に使われた面(おもて)などを幅広く収集し、中世の人々が熱狂した猿楽(能楽の古称)の世界を紐解く。

 

猿楽と面ー大和・近江および白山の周辺からー – MIHO MUSEUM

3月10日(土) - 6月3日(日)

猿楽と面
―大和・近江および白山の周辺から―

猿楽(さるがく)とは、古くは「さるごう、さるがう」とも読まれ、能と狂言で構成される現在の能楽(※1)のかつての呼び名です。猿楽の起源は、通説では大陸伝来の散楽(さんがく)に由来し、日本古来の芸能と融合しながら芸術的完成度の高い歌舞劇へと進化して、今に至ったとされています。

平安後期に書かれた藤原明衡(あきひら)(989-1066)の著作『新猿楽記』には、奇術、曲芸、歌や舞、人形劇、滑稽な物まね芸を伴う寸劇など、多種多様の演目が紹介され、当時の人気ぶりが伝えられています。やがて田楽(でんがく)、傀儡(くぐつ)、猿楽などそれぞれが職業化していき、有力な猿楽師は大社寺に所属して座を形成し、祭礼や法会の儀式の一部や余興を担っていくようになりました。

田楽を含めた多くの座が人気を競い合い、また影響しあう中で、室町時代初期から足利将軍家や大社寺の庇護のもと、猿楽は隆盛を迎えました。観阿弥(かんあみ)(1333-1384)は、大和猿楽の伝統である物まね芸(人の感情や行動を模す芸)に、当時流行の田楽や曲舞(くせまい)の諸要素を採り入れて人気を博しました。その子世阿弥(ぜあみ)(1363?-1443)は、鑑賞者に上流貴族層を想定し、古典や戦記物に範をとり、洗練された夢幻(むげん)能(のう)(シテが超自然的な神、霊、精など)や、現在能(げんざいのう)(シテが実在した人物)を確立させ、歌舞劇としての能を大成させました。

本展覧会は、興福寺春日大社などに猿楽を奉仕した大和四座(※2)の本拠地大和、世阿弥の『風姿花伝』や『申楽談義』に大和猿楽に並ぶ勢力として登場し、延暦寺日吉大社などに猿楽を奉仕した近江、そして霊峰白山の参拝口である加賀馬場、越前馬場、美濃馬場の祭礼に使われた面(おもて)などを幅広く展観します。

平安後期から鎌倉時代の古面に始まり、南北朝から室町、安土桃山時代の大成期にわたる350点(うち重要文化財80点)の「面(おもて)」を通して、主に彫刻史の観点から、文化芸能史、文学史の側面も絡めて、中世の人々が熱狂した猿楽の世界を紐解いていきます。


※1 明治14年(1881)の能楽社の設立以来、能楽の呼称が一般化した。

※2 大和四座:結崎(ゆうざき)座(観阿弥世阿弥を輩出・後の観世流)、円満井(えんまい)座(後の金春流)、坂戸(さかど)座(後の金剛流)、外山(とび)座(後の宝生流

 

┣■『面』も幾つか所有しておりまして、勉強がてら本書を手にしてみました。田舎暮らしが長かったため「能」や「狂言」の世界とはなかなか接点がなかったのですけれど、結構性に合っているようです。(笑) 人生経験を積めば積むほど理解できるというか、そういう世界観が感じられますよね、ホントに。

┗■「〇〇家」とか裏に書かれた『能面』を出品される方が多いわけですが、どういうお気持ちで手放されているのでしょうね。私にはちょっと出来かねますけど。まあそのおかげで私のような者でも、積み重ねられた歴史・思いに触れる事ができるんですけどね。f:id:jnsk_jojo:20180423133849j:plain